日本空手道会から東西の糸東会、現在の糸東会へ
■日本空手道会から東西の糸東会へ
摩文仁賢和先生が、昭和の初めに上阪後、1931(昭和6)年に設立された「大日本空手道会」は、後に「日本空手道会」に改称される。1952(昭和27)年5月23日、将来の大河を確信しつつ、糸東流流祖、摩文仁賢和はその生涯を閉じた。その後、師の志を継承しようとする、多くの弟子たちによって、「糸東流=糸東会」として着実に発展していくこととなった。
戦前ないしは、戦後の混然たる世相の中で、ひたすら師賢和とともに空手に打ち込んだ数多い弟子の中でも、後に「日本空手道会(現・糸東会)」を師と共に設立した、直弟子に当たる人々がいる。それらの人々は現在も「全日本空手道連盟糸東会」において重きをなし、師賢和の教えを後輩に忠実に伝授してきた。
■ 1960年、東西の本部が発足
日本空手道会としての主流は主に関西にあったが、1960(昭和35)年11月1日、東日本一帯で精力的な努力を重ねた元・糸東会会長の岩田万蔵を中心に、日本空手道会東日本本部が設立された。時同じくして西日本本部も発足、東日本は岩田万蔵が会長に、西日本は摩文仁賢榮が会長に、それぞれ就任した。
■ 1964年、全日本空手道連盟糸東会が発足
それまで、東西それぞれ別々に大会を開催していたが、1964(昭和39)年4月、東西合同で全日本空手道糸東流選手権大会を開催する。
当日の懇談会にて、この機会に東西の意思疎通を計る目的をもって、関東側から海保薫、岩田万蔵、伊藤四郎、関西側から高丸治二、辻川禎親、﨑尾健が選出され、統一運動が決定された。この時、「日本空手道会」を「全日本空手道糸東会」と改名する。
また、同年10月1日に、全日本空手道連盟が結成された。そのような状況の中で、前述合同による大会開催なども契機となって、糸東会として東西の大同合併の気運が高まり「全日本空手道連盟糸東会」が発足することとなった。
こうして、本土に蒔かれた摩文仁賢和による一粒の種は、「大日本空手道会 → 日本空手道会 → 全日本糸東流空手道会 → (全空連設立に当たり) → 糸東会」として、世界的な継承を確実なものにしたのである。
●「全日本空手道連盟糸東会」発足までのあゆみ
1931(昭和6)年 | 流祖・摩文仁賢和が「糸東流」を創始 |
1931(昭和6)年 | 「大日本空手道会」発足 (後に「日本空手道会」と改称) |
1945(昭和20)年 | 第二次大戦終戦。武道禁止令が出される。 |
1952(昭和27)年 | 流祖・摩文仁賢和が死去 |
1960(昭和35)年 | 日本空手道会東日本本部(会長:岩田万蔵) 日本空手道会西日本本部(会長:摩文仁賢榮)と東西の本部が発足。 |
1964(昭和39)年 | 4月、東西が合併し、「全日本空手道糸東会」となる。 |
1964(昭和39)年 | 10月の全日本空手道連盟創立により、「全日本空手道連盟糸東会」と改称 (会長:田中栄一 副会長:岩田万蔵、摩文仁賢榮) |
組織の発展と世界への広がり
■多様な意見が生まれ、それを実行するための組織拡充
1964(昭和39)年の「全日本空手道連盟糸東会」設立以後、組織としての体系化がなされていく。糸東会を発展させようとする先人たちの気概により、多様な意見が生まれ、それを実現させていく組織変革が幾度となく行われていった。
1973(昭和48)年の指導者制度の確立により、日本各地の糸東会組織が整えられていく。
また海外に目をやると、1950年代に糸東流が初の海外進出を中南米地区に果たして以降、言葉や生活環境の異なる外国で、着々と普及を果たしていく。1978(昭和53)年の「アジア糸東流空手道連盟」結成を始め、世界の各地区でも糸東会の組織が設立されるようになった。
1990年代に入ると、国際大会開催の機運が高まり、それを実現するための世界連盟設立が求められるようになった。幾多の会合を経て、1993(平成5)年3月17日の「世界糸東流空手道連盟」結成、同21日の第1回世界大会開催に至った。
■本部・委員会制度の確立
第1回の世界大会開催を契機に、国内外のますますの組織拡充が進んだ。
本部・委員会制度が確立し、1995(平成7)年には意思決定機関である正副理事長会が発足。中央の機関が盤石のものに整えられた。
各地区においても、同年に地区統轄本部が設立され、それを中心に都道府県団体が連盟組織として整備されていった。
■ 1997年、本部道場が完成
日本はもとより世界中で糸東流を学ぶ人達の拠り所として、1997(平成9)年4月12日に待望の「本部道場」が埼玉県朝霞市に完成した。
本部道場ができたことにより、各種講習会の開催で指導者の育成と会員の技術レベルの向上、糸東会日本ナショナルチームの設立やジュニア世代の育成強化などの競技力向上につながった。
また、海外研修生を受け入れ、正統な技術を海外に伝導する仕組みが成立した。
同時期に、統一形指導書の発行、形ビデオの発行など、糸東会の正統な技術の補完を進めていった。
■常に時代の先端をゆく
糸東会では、先人の努力により、常に新しい変革を求める組織風土が成立している。
将来を見据え、1993(平成5)年秋には、中長期計画の策定において、人材育成の促進がうたわれた。糸東流空手道技術を正しく継承する人材はもちろん、会の組織の発展に寄与するための人材育成もここにはうたわれて
いる。
近年の情報化にも敏感に着目し、ホームページ開設、会員登録のデータベース化など、ITの活用による情報交換の効率化推進にもいち早く取り組んだ。
●全日本空手道連盟糸東会 組織発展の主な流れ
1964(昭和39)年 | 10月、「全日本空手道連盟糸東会」創立 (会長:田中栄一 副会長:岩田万蔵、摩文仁賢榮) |
1970(昭和45)年 | 10月、第1回世界空手道選手権大会開催 (10日/日本武道館、13日/大阪府立体育会館) 糸東会からも選手、役員を派遣 |
1973(昭和48)年 | 師範制度が成立。指導者制度の先がけとなる |
1980(昭和55)年 | 第2代会長に岩田万蔵先生が就任 |
1990(平成2)年~ | 全糸東会の世界組織である 「世界糸東流空手道連盟」の結成の声があがる |
1991(平成3)年 | 2月、理事会で常任理事会に運営委員会を設置することが決定 (組織委員会・財務委員会・企画委員会・広報委員会) |
1993(平成5)年 | 3月17日、「世界糸東流空手道連盟」結成、同21日に第1回世界大会開催 |
1993(平成5)年 | 第3代会長に﨑尾健先生が就任 |
1993(平成5)年 | 10月、東京武道館にて長期計画を策定(本部道場建設計画 人事育成計画) |
1994(平成6)年 | 2月、理事会にて、「北関東」を「関東」に、「大阪」を「関西」に名称改正 地区協議会が続々と成立し、日本各地区連盟充実のきっかけとなる |
1995(平成7)年 | 2月、正副理事長会が発足 |
1996(平成8)年 | 第2回糸東流空手道世界選手権大会を開催 (開催国:メキシコ) |
1997(平成9)年 | 4月12日、「本部道場」完成(埼玉県朝霞市) 本部道場 1. 本部道場運営の実施 2. 練習生の募集を広報委員会と連携して推進する 3. 技術本部と連携して選手育成を推進 4. 本部道場を活用した講習会を技術本部と連携して推進 5. 常任指導者の導入 6. 海外研修生受け入れの本格的検討 |
1998(平成10)年 | 小渕恵三・糸東会最高顧問が第84代内閣総理大臣に就任 (2000年5月に逝去するまで務める 名誉八段位贈呈) |
2000(平成12)年 | 第3回糸東流空手道世界選手権大会を開催 (開催国:日本 東京) |
2001(平成13)年 | 開祖摩文仁賢和先生 50回忌を開催(大阪天保山ホテルシーガル) |
2003(平成15)年 | 第4回糸東流空手道世界選手権大会(開催国:ロシア モスクワ) |
2004(平成16)年 | 第4代会長に久冨登喜雄先生が就任 |
2004(平成16)年 | 9月 世界糸東流空手道連盟親睦旅行会(日本 奈良/2日間開催) WSKF世界各地区の役員を招き、日本の糸東会指導者と会合。 古都・奈良の観光も行い、日本と世界の結びつきを深めた。 |
2006(平成18)年 | 第5回糸東流空手道世界選手権大会を開催 (開催国:日本 東京) |
2008(平成20)年 | WKF第19回世界大会の機に、世界糸東流空手道連盟(WSKF)各国会議を開催 27カ国78名が参加 (東京・九段会館) |
2009(平成21)年 | 第5代会長に村田寛先生が就任 |
2009(平成21)年 | 第6回世界糸東流空手道選手権大会を開催 (開催国:中国 北京) |
2010(平成22)年 | 開祖摩文仁賢和先生 生誕120年祝賀会を開催 (ホテル大阪) |
2011(平成23)年 | 東日本大震災が発生。糸東会関係者も多数被災し、糸東会で義援金を募る。 国内、海外からも多くの義援金が送られる |
2013(平成25)年 | 第7回糸東流空手道世界選手権大会を開催 (開催国:日本 東京) WSKF設立20周年記念、東日本大震災復興祈念大会 歓迎ディナークルーズを実施 |