糸東流空手道の理念

■糸東流空手道の理念

摩文仁賢和先生は、初め首里手の大家糸洲安恒先生について糸洲派の空手道を学び、後に那覇手の大家東恩納寛量先生について東恩納派を学んだ。

研究熱心な摩文仁先生が、両派以外の松村派、新垣派などの各派を修めた。

糸洲、東恩納両先生の頭文字を取り、糸東流と称した。これは、糸洲、東恩納の流れを摩文仁賢和が摩文仁流としてとなえ、「守・破・離」の段階を経て、精査、精選し、その精髄を融合して糸東流と称したものである。

特徴としては、形を根幹としてその内容を徹底的に研究し、その技を実際的にかつ理論的に究明して、分解組手として練習している点である。また無駄な力を使わず、必要以上に大きな動作も行わず、従って形も派手な動作はないが、技の内容をよく理解して生きた形を、演武することができる。

また流祖は技術指導と共に、精神教育にも重点を置き、「君子の拳」を標榜され、円満な人格の養成向上を指導された。

糸東流は分派が多いが、糸東会は糸東流の本流を結集し、糸東流の普及発展に努力している。

■「君子の拳」

摩文仁賢和先生は、琉球の地に昔からひそかに伝承されてきた特殊な無手の格闘術を単なる闘争の術ではなく、心身の修練を第一の目標とし、君子の威厳を保持する武術として修行錬磨された。

よって、糸東流の空手道は「君子の拳」を標榜し、技術指導とともに円満な人格の陶冶をめざしている。

「君子の拳」という教えは、空手道を学ぶ者にとって忘れてはならない言葉である。

技の特徴としては、形を根幹としてその内容を徹底的に研究し、その技を実戦的にかつ理論的に究明して分解組手としている点である。

修業者の心得

■修行者の心得

修業者の心得

空手の練習は師に教えてもらう時も、同輩と共に、あるいは一人で行う時とを問わず必ず真剣に行うべきである。敵と闘う心で形を練習せねばならぬ。

精神の緊張味のない練習は、自然と遊戯的になりやすく、如何に長年やったとしても上達することなく、心身の鍛練はもちろん真剣の時に心臆して体は働かず、思わぬ不覚を取るものである。よって平素の形の練習は精神的にやるかやらぬかは日の経過につれて大きな差を生ずる。

練習の時は、肩を下げ胸を開き丹田に力を入れ、眼はまっすぐ前を見、顎を引きつけて首筋に力を入れ、拳を突き出す場合には一拳必殺の勢で練習すると、自然心身の修養が出来る。なお修業者の最も慎しむべきは酒色である。酒によって心乱れて拳を振うが如き、あるいは練習を不真面目にするが如き、色によりて惰弱に流れるが如き、いずれも唾棄すべきことである。

元来、空手は攻撃術ではない。形をやれば分かるが、いずれも受け手が先になつている。充分攻撃力を有していて防御するのである。

空手もこの意味からしても護身術としてだけでなく、社会に処するに空手の精神をもつて、内に充実する力を有し、なおかつ人に折れて出る、修業者はこの気持を養うようにすることを特に希望する次第である。

剣道が人を斬る術でなく己の欲を断つ法であるように、空手も自巳の欲を押え謙譲な心を養う法である。

いたずらに拳を振り脚を蹴りもって人を驚かし、争うことは決して空手の本意でない。

空手修業者が、よく座興的に瓦を割り板を割り拳頭の偉力を示し、それを誇る人がいることをみかける。

拳頭を鍛えることは必要であるが、それをもって人を驚かし、或は威圧するが如きは空手道より見れば決して上乗のものでない。

武術は元来が身心の鍛錬が目的である。人格を作るためである。ある名高い人が云っている「世の中で武術家ぶる武術家程いやなものはない」と、今迄幾多の門弟中にも、人前で拳を振つて瓦や板を破り得意となるような人にあまり上達した人がない。このような人物は形をやってもまったく不熱心である。拳の強い事も必要であるが、形はさらに必要である。

昔は習うのも教えるのも秘密裡に行われ、拳法を習う者は、人の多数居る場所には、なるべく出なかったくらいに自重していたものである。

現代のように総てが開放的になっているにしても、これだけの自重は必要である。

さらに身体についての注意としては、練習に先だち必ず用便しておく事である。武に志すものの忘れることの出来ぬことである。

手足の爪は切っておくことである。長く伸びた爪は往々にして自身を損う場合が多い。

最も注意すべきは精神である事は今さら述べる必要もない。瓦を割る話が出たからついでに書くが、決して不思議でない。ただ朝夕の練習によるのだ。瓦と板に対してはるかに軟い手をもって之を破る、ただ精神と練習によるのみ。科学万能の今日これを科学的に研究されることも無意味でないと思う。

諸君の中でほんとうに空手の精神を理解して研究される人々の多数おられることを私は信じている。私の故国では古くより「君子」の名称を空手修業者につけている。

その意味は武士あるいは紳士等の意味と同じく、正しい人格者と云うことである。思想悪化の今日一人たりで君子とならる人の多きを望みます。(おわり)

『攻防自在護身術空手拳法』摩文仁賢和著
1934年(昭和9年)3月初版発行より抜粋。
(一部原文を現代語に改めてあります)

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